怒りと威厳で反対派を制圧したマディソン大会

25年間の通訳の歴史の中で、最も鮮明仁記憶に残るとともに最も困難だった大会が、一九七四年九月十八日のマディソンースクエアーガーデンでの講演会であった。
これはニューヨークの大攻略作戦であった。
この大会の後には、ニューヨークの人々で文先生Rev.Moon)は有名になった。
 統一教会が大々的な攻勢に出ると、われわれを異端視する一部の既成キリスト教会が前例のない反対運動に出てきた。
二万五千人の講堂に六万人の群衆が押し寄せた。
したがって、大部分の群衆は場内に入ることもできずに帰らなければならなかった。
ところが統一教会に反対する者たちは、巧妙にチケットを購入して観客席の重要な部分を既に占拠していた。
 演芸プログラムが終わり、文先生が登壇されるや、観客席から大きな反対の示威が起こった。
 「異端者よ立ち失礼。反キリストよ立ち去れ!」
 ということであった。
会場は修羅場と化した。
 文先生はこれを柔らかく鎮めようとされたが、反対派観衆の目的は初めから講演をさせないように妨害することにあった。
 先生は場内を収拾するために、「私か歌を一曲歌いましょう」
 と言われ、「出有花」という歌を歌われた。
 大多数の観衆は大きな拍手を送った。
ところが反対派は執拗に騒ぎ立てる。
「統一教会、異端は立ち失九!」と大声でわめき立てる。
 さらに胸の痛いことは、こうした妨害の大部分がアメリカに住んでいる韓国人僑胞の示威であったということだ。
アメリカ人観衆は面食らっていた。

 今度は観衆の間で互いに争いが起こった。
まかり間違えば暴力沙汰に発展しそうな様子も見える。
この光景をご覧になって文先生は涙を流された。

 まもなくこの涙は怒りに変わった。
 ついに先生は怒りを爆発させた。
先生は大声で怒鳴られた。
 「皆さん、静かにしてください。
アメリカは寛大な信仰の自由がある国です。
私に反対しようと思うならば、一度は私の言葉を聞いてみなければならないのではありませんか? 
聞いてから反対してください。
私の言葉を聞きに来た六万の観衆を前に、このような無礼がどこにありますか!」
 私も怒気を込めて通訳した。
アメリカの観衆は、その言葉が正しいと拍手で応えた。
 その瞬間から先生は一歩の譲歩もなさらなかった。
その気概は怒濤のようでもあり、台風のようでもあった。
先生は大の権威をもって堂々とみ言葉を宣布し始められた。
先生は危険を恐れず、必死で霊力と体力のすべてを振り絞って、雷のごときみ言葉で群衆を制圧し始められた。
先生のその堂々たる威厳に、そしてその落雷の音のような声に、場内三万人の観衆は圧倒され始めた。
反対者の示威は水を差され、彼らの気が殺がれた。
反対派を天が恐れさせたのである。
何か天罰でも落ちそうな雰囲気であった。

ほぼ30分で聴衆は完全に平定された。
 その時から、観衆は先生の新しいみ言葉に酔って、じっと聞き入るのであった。
感動の拍手が相次いで起こった。
 [YOU are right! YOU are right!そうだ!・ そうだ]」という声が次々に上がった。
「アーメンー」「アーメンー」という声があちこちから聞こえてくる。
 二時間にわたってみ言葉を語られる問に、先生は広い舞台を縦横無尽に駆けめぐった。
手を大きく振りかざすジェスチャーは、威厳があり凛々しかった。
イエスが神殿で両替人の机をびっくり返したその迫力と心情をもって、文先生は大の憤りを爆発させた。
しかし、語られる一つ一つのみ言葉は呪いではなく愛であり、嘆かわしい一部僑胞の失態をご覧になって、神の代身者として胸が裂けるほどの痛みを感じておられるのがよく分かった。
 講演が終わる頃には、場内には頭一つ動かす人もいなかった。
会場は水を打ったように静かである。
観衆は普通の復興会であろうと簡単に考えて来たのであるが、思いもよらずとてつもない事実を目撃したのである。
彼らは天の怒りと愛を同時に体験したのである。
 私はこの気が塞がる全過程を一枚の原稿もなく通訳しなければならなかった。
果たして私は先生の言わんとすることの十分の一も表現できたであろうか? 
大の憤怒と愛をその通りに伝えようと死力を尽くした。
とにもかくにも、私は白分か受けた啓示の通りの心構えで、天の通訳法によってこの大接戦を乗り切ったのである。
 先生が最後の挨拶をされるときになると、私は足の力がすっと抜けてしまった。
講演が終わっても、私は壇上から降りることができなかった。
倒れそうになった私を数人の教会員が脇を抱えてくれて、やっとのことで控え室に出て来た。
私は先生にすぐに勝利の祝賀を申し上げたかった。
そしてこういう特別な場合には、私の力不足をお許しくださいとお詫びしたかった。
私はその日、先生が私にサインしてくださったプログラムを今も保管している。
 私はそれから二十四時間は起き上がることができなかった。
持てる霊力と体力をすべて消耗したのである。
起き上がることができなくても、私の心は喜びでいっぱいに満たされていた。
無限にありかたく、幸福であった。




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