全米50州を席巻した「希望の日」講演会
 さて、文鮮明先生の最初のアメリカ巡回公開講演会は、一丸七二年二月三日にニューヨークのリンカーンセンターから出発して、七大都市を回り終えたのが三月十一日であった。
その直後、三月二十二日には英国のロンドンに渡って「希望の日天講演会」を挙行され、三十日には西ドイツのエッセンでも同様の大集会を持たれた。
ヨーロッパにも天のみ言葉の新しい風を起こされたのだ。
 アメリカに帰って来られた先生は、翌年の秋、一九七三年十月一日から七四年一月二十九日まで、今度は米国二十一力都市においてみ言葉を宣布された。
 この時から新しい形式が導入され、一つの都市に行くと、まずその都市の有志と指導者クラスを集めて「希望の日晩餐会」を開催し、翌日その都市の最も大きな講堂で一般聴衆向けに「希望の日天講演会」を行った。
 この一連の巡回講演で、キリスト教国アメリカが文鮮明先生を意を決して歓迎したことは、必ず歴史に記録されるだけの価値がある。
アメリカの国民は二千年前のユダヤ教とイスラエル民族の轍を踏まなかった。韓国から来た蓼言者を、まだその方が再
臨主であることは知らないにしても、どこでも大のお客様として純粋に丁重にもてなしたのである。
 全米五十州の各都市の至るところで市長や知事が出て来て、名誉市民証、幸福の鍵、感謝牌などを贈呈する。
その数を正確に把握することは難しいが、少なくとも千五百点以上の名誉市民証であり、感謝牌であり、歓迎の手紙である。
 先生か講演した日を、その都市の「希望の日」または「文鮮明師の日」として布告文を出し、全市民が共にその日を祝うようにしたところが一個所や二個所ではなかった。
その代表的な都市がロサンゼルスであった。
 一九七四年は二月十五日から四月二十一日までの六十五日間に、再び疾風のごとき速度で全米三十二力都市で大会を持たれた。
一つの都市で二度集会を持たれたので、集会の日数で六十四日となり、ハワイに向かう一日を除いては、毎日壇上に立たれたのである。
アメリカの歴史に果たしてこのような前例が一石とあるであろうか。
これによって、文鮮明先生は全米五十州をあまねく巡回しながら、すべての心血を振り絞って天がアメリカを愛されていることを示し、アメリを立てて大の選民として用いようとする聖なる御旨を明らかにされたのである。
 しかし、その年がそれで終わったわけではない。
五月七日には、日本の東京で「希望の日晩餐会」(帝国ホテル。千七百人参加)を開催し、日本の現職国会議員と大臣が多数参席し、
当時大蔵大臣で後に総理大臣になった福田赳夫氏が『アジアに偉大な指導者現る。その名は作文鮮明』という歴史的な発言をした。この記念すべき大晩餐会の名誉実行委員長は岸信介元首相であった。
岸元首相は文師の勝共運動に深く共鳴 し、文師とも直接会談された。
その後亡くなるまで、相互に深い愛情のこもった親交が続けられた。
 再びアメリカに戻られた文先生は、既に述べたマディソンースクェアーガーデンでの三万人集会を九月十八日に成功させ、これを起点に全米八力都市で「希望の日」マンモス大会を一つ一つ勝利していかれた。




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